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2005年08月18日

本:袋小路の男

 借りた本。
 表題作「袋小路の男」、「小田切孝の言い分」、「アーリオ オーリオ」の3作が収録されている。
 
「袋小路の男」は、袋小路に住む、作家志望の男に恋する女性の一人称で書かれている。最初は高校生だった彼女は、作中でどんどん成長していく。いろいろな男と恋愛もするが、結局のところ袋小路の男をいちばん大事に想っている。

「小田切孝の言い分」は、袋小路の男であるところの、小田切孝をメインに据えて、三人称で書かれている。(むかし、同じ話を女の子がわと男がわの視点で描いたコバルト文庫があったよーな気がする。←読んだことない) そこで、前作の中での男の言動の根本なども明かされていって、ふたつの物語はある意味での決着を迎える。…だと思う。

「アーリオ オーリオ」は、2作とは関連がないので、ここでは脇に置いてみて。

 
 この本、純愛小説として絶賛されているらしぃ。
 ところで、ワタクシ、これが純愛だとは、読んでいる最中はまるっきり思っていなかったし、このことばを連想することすらございませんでした。
 
 読後、帯をみて、「へ? 純愛?」と思ったのが正直なところ。自分の中では純愛ということばの定義がなされていなかったので、改めて考えてみたのだけれど、やっぱりこれが純愛とは思えない。
 私には、このふたりは、性的な関係のない、ゆるやかな共依存。に思える。必要以上には関わらない関わらせない。それでもそこにいないとやだ。ピンチのときには頼りにする。体の関係は他の男としてみたりする。という。。
 作者のひとは、これが純愛だと思って書いたんだろうか? 物語としては、こういうのもアリだと思うしあるかもしれないとも思わされる。んーでも、純愛としてもてはやされてるってことに、違和感が。。
 
 主人公の女性にはいろいろなところで共感はできる。惚れた弱みという部分からくる発想や、自分に対する束縛もわからないでもない。ただ、ワタシ的には、「顔が好き」から始まった恋愛が、12年引っ張れてしまうというのがわからない。もはやこの恋(?)は、幻想か妄想ではないかとすら思ってしまう。(まぁフィクションだからいいっちゃいいんだけど)
 1作目では延々と彼女の考え方や生き方が書かれ、2作目で彼が何を思っているのかが示される。思い違いも含めて、まぁ、こんなことってあるよね。とも思う。
 
 過去のできごとも進行形でひたすら「あなたは〜」と語らせるのは面白いと思った。…けれど、この手の恋愛小説は自分には向かないなぁとしみじみ思った。や、それなりに面白く最後までだーっと読んじゃったんだけれど。なんというか。。
 
 ところで、「アーリオ オーリオ」は、面白かった。
 立ち読み推奨。ただし、科学(天文)に興味がないひとがどう思うかは保証しませんw
 ただ、おじさんの恋愛遍歴は、無理矢理押し込んだような気がして仕方ない。この話だけじゃ、素敵な受付嬢が、彼の何がよくて押しかけてきたのかさっぱりわからないではないですか〜。おじさんの価値観やものの考え方は、他のできごとで代用して、姪っ子との関係や姪っ子自身の変化にもっと焦点が当たっていた方が自分としては好みだったかなぁ。と。
 
 この本が想定している購読層ってどんななんだろう。
 
 ふと思ったけれど、こういう本が自分的にあまりウケないのは、根本的に、自分が他人の恋愛沙汰に興味がないだけじゃなかろーか…。
 (身近でリアル進行してる場合は無関心ではないのよーw)
 
 もうひとつ。これはなぜなのかさっぱりわからないけど、日本の文学賞の類いに、全然権威を感じない。ヒューゴー賞やネビュラ賞受賞作の方が気になるというのは、我ながらどうかとは思っている。が、修正不能。

投稿者 chi : 2005年08月18日 20:33

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コメント

実は、どーにも納得できなくて、純愛の定義などを調べてみたりしたのだけど、結局定義自体も存在しないってことがわかったカンジ。

これが純愛と言われる背景に、どこぞのおーるあばうとじゃぱんで取り上げられていた、「若者の恋愛に増えるセックスレス」とかなんとかという記事タイトルをふと思い浮かべてみる。
(一方で、日本は先進国とは思えない勢いで、HIVの感染が広まっているとか。なんですが、それについてはどうなのよ。と思っていたりする。結論が先にある報道。ってーのがいちばんの問題だと思うんだけどぅ〜
(話が思いきりわき道にそれてるのでコメント欄に書いてみるw

投稿者 chi : 2005年08月18日 20:40

 酔っぱらったアタマで考えたニャ。
 …そのあとちょびっと編集したw

 表題作だけだと、後味が悪いままだったニャ。
「言い砲祠」を読んで初めてすっきりしたというか。

 最初から対の話であったのか、それとも反響があって生まれた2作目にゃんだろうかと考えてみたりもする。

 要は主人公が、男にとって「都合のいい女」で終わっていたら、この話は自分にとって、ひじょーにヤにゃ話ににゃってしまったということではにゃいかと思われる。(ほらほら、ごく身近に都合のいい女やってエライ目に遭ってたひとがひとりw)

 純愛を純粋にゃ愛情のことだとするにゃらば、色恋を越えたところにそれはあると思う。ワタシとしては、それは家庭のように現実と日常にまみれた中にこそあってほしいもののように思うのですニャ。
 …これこそ妄想にゃのかもしれにゃいが。
 
 何も顧みずに尽くす愛情は。
 愛して欲しいと思っている間は生まれにゃいと思うもんで。

 お話の最後の最後で、純愛に昇華したと捉えるものにゃのかもしれにゃい。

 やぁ、にゃんだかんだ言ってあれこれ考えちゃうのよねぇ。
 よく本を貸してくれるおともだちの、日本の小説はにゃまにゃましくてダメってーのがわかる気がしてみたニャ。

投稿者 chiにゃん : 2005年08月19日 22:00

気が向いたら、お名前に「@neko」をつけてみてくださいまし。




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